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3・11 福島から岡山へ  5年目の現実を未来に遺す 原発事故から5年目のいま
子供未来・愛ネットワーク  代表 大塚愛 http://kodomomirai.org  より一部抜粋
Updated Date : 2017-03-23 06:51:55
Author ✎ Teddy
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2011年(平成23年)3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により大規模地震災害が引き起こりました。その後さらに、福島第一原子力発電所事故が起こり、特に福島の人々には大きな困難が持ち上がりました。 これは、福島から岡山に避難された人々がどのようにその大災害を乗り越えようとしたか、今どのように考えているかについての報告です。私たちに大きな示唆を与えてくれると思い、抜粋で記事をまとめました。   文責 林洋子 (TeddyHhayashi@gmail.com)
飯塚敦  浪江町から避難した家族の受け入れをして、数か月共同生活をする中で、放射能に対する考えがそれぞれに違う場面をいくつも経験した。 Y.K 原発事故後の対応で国を信用できないと思った。情報がまったく入らなかったし、国がメディアを使い「ただちに影響はない」と言っていた。国は守ってくれず、自分で動くしかないと思い避難した。 小林孝枝  事故後しばらくは泣いてばかりいた。自分ではどうにもできない大きなことが起こり、それを受け止めるための頭と気持ちが嚙みあわず辛かった。友人にも心配されたが、あの頃の自分はやはり変だったと思う。原発事故によって、そこで積み重ねてきた「時間」を一瞬のうちに失ってしまったが、今はようやく前しか見なくていいような気持ちになれた。 芳賀治恵  地元の支援者が福島から子どもたちを招いてくれたり、再評価カウンセリングの仲間もできたが、近所や職場の方から「ここに来たんだからがんばってね」と言われると、「被災者として頑張り続けなきゃならないのか。本当はしんどいのに…」と思っていた。 反原発派と原発推進派の接点を見つけていくことが大事だとわかった。「私たちは正しい!」と思い込むことが、分断を生む。その難しさがわかった。 宗形さんご夫妻  震災直後から学者が「安全です、安全です」と毎日テレビで言っていて、1か月くらいはそれを信じていた。よく調べてみたら、やっぱり安全ではないとわかった。反対の意見も出してくれればいいのに、必死に「安全です」とばかり言うので、かえって怪しいなと思った。 新聞やニュースを信じてはいけないことを学んだ。まわりの人たちに感謝しつつ、毎日を普通に生きていけたら幸せ。 避難してきて二十ローンも抱えているし、心が折れたらダメになるので、気合を入れて生きていこうと思っている。
Y.T  長いこと時間が止まっている気がする。老後は福島か少なくとも東北で暮らしたい。いつまでも想いを残している大切なものがたくさんあるところ。原発事故後の政府の対応を見て、国は信用できないと思うようになった。 E.T 県の交流会の第1回には行ったが、誰も知った人がおらず、2回目からは行かなくなった。先日、がんばってきた自分へのごほうびに津山の避難者交流会に行ったら、いわきで近所に住んでいた人に偶然会えてとてもうれしかった。ふだんはずっと家にいて、誰ともしゃべらないので、機会があれば交流できる場に出かけたいと思う。 まじょりん  両親は、半壊した自宅のある相馬へ戻っていった。年老いた両親はそこで暮らすことの方が安心なのだと感じた。人はその体験をしたときに何を思ってどう行動するかで、それぞれの新しい道を切り開いていくのだろう。そして同志、仲間の輪ができ、新しい世界が拡がるのだろうと思う。 高橋香   県内に留まってがんばっている方たちの話を聞き、共感と同時に、安全な場所に逃げた自分との距離感や無力感を強く感じた。もともと引きこもりがちな性格なので、支援団体やNPOの活動を通して、震災前までとはまったく違う生き方をすることになった。知り合いも一気に増えてよかったが、自分としては重荷に感じる場面も多々あったので、徐々に手を引き、今は自分に合った生活をしている。 匿名  友人たちと被曝回避に全力をつくしたが、GW頃から我が子に異変が起き始めた。止まらない咳や熱、アトピーの悪化、大量の鼻字血。線量が低いと言われていた地域だが、夏に測定に出した幼稚園の園庭の土は3000ベクトル/kgを超えていた。夏を過ぎると周囲の放射能に対する警戒心は薄れ、従来通り、組体操・芋ほり・収穫祭などが行われる現実に、「私がおかしいのか?それとも周りがおかしいのか/」と混乱した。 避難後、一番辛かったのは長男の反抗と不登校。限界を超えて頑張っても、自分を責めてしまう悪循環。 家族のトラブルで仲間に助けられるうちに、自分をがんじがらめにしていた「こうあらねば」という常識や思い込みが解けていった。自分らしく生き直しをするきっかけになったと思う。
芦川雄一郎  論理的に考え、話すことは大切だけれど、人は論理だけでは動かない。 メディアは大切な情報を中立的に流さない事も多いし、どの情報が中立であるかもわかりにくい。また、放射性物質という脅威にさらされたことで、動物は植物によって生かされているという事をより強く感じるようになった。 Y  岡山には移住者がたくさんいて、落ち込むたびに助けられてきた。 谷内秀行  福島への想いは揺れ動くし、自分の中で抑え込んだりしているものもあるかもしれない。笠岡で保養支援に関わったときに、福島から来た支援団体の女性が「福島の状況は危ない」と決して言わなかったことが印象的だった。 佐藤和夫  福島には生まれてから60年住んでいたが、離れてみて初めていい所がよくわかる。福島の山は落葉樹がきれいで、山菜やキノコもいろんな種類があった。岡山では落葉樹や山菜が少なく、春や秋の喜びが薄い。たまに地元に帰って友人と話すこともあるが、過去の思い出話ばかりしたり、以前より意欲を失っていたりして、元気のない人が多いように感じている。病気にならないように気をつけてほしいと思う。 原発事故をきっかけに、たくさんの人が避難して動いたので、人がシャッフルされて新しいコミュニティーが生まれたと思う。また自分も含めて、「今の社会を変えていかなければ」という意識をもつ人が、とても増えているように思う。 布瀬瑛子  いま大事なのは子ども達。震災後、祖父母や友だちと会えず悲しい思いをさせてしまったし、「避難民だから」と楽しいことも我慢させてきたので、今はその分、子どもらしい良い経験をさせてあげたい。 社会の仕組みには、報道に載らない現実がたくさんあることを知った。そこから目をそらしてはいけないと思う。新聞の取材を受けた時に、都合の悪い内容があとで切り取られてしまったこともあった。騙されないように、テレビや新聞の裏にあるものを意識したいと思う。 吉田めぐみ  福島に残る人と県外に出た人の間に意識のズレがあることや、本音が言えないことが一番つらい。いっそのこと同じ地域の人がみんな避難できれば、こんな辛さはないのではないか、と思う。
大塚愛  初めは避難を支援することだけを考えて動いていたが、福島に留まる人の想いに触れたり、自分自身が川内村に帰ったときに揺れる気持ちを体験して、「身体のためには避難した方がよいが、心のためには住み続ける方がよい場合もある」と感じ、正解はひとつじゃないと思うようになった。 避難や保養の支援を通して、それぞれの選択が尊重されることや、つながれる場の実現に向けて走り続けた。4年ほど経った頃ふと気づくと、自分の心の傷が治ってきていた。ある映画に出てきた言葉、「自分の傷を治すには、他の人の傷に絆創膏を貼ること」の意味を実感した。 小塗幸子  友人に「裁判やってる」と話したら、「もう福島のことであまり騒ぎ立てないで」と言われ、意見が合わなくなってしまった。 福島市ではアパートに除染作業員の男の人がぎっしり入り、車は県外ナンバーばかりで、ちょっと異様な感じ。ふるさとは変わってしまった。 A. Y 福島の中では、放射能が安全だという情報しか伝えられておらず、もどかしい。危険な面もあるはずなのにそこは伏せられていて、その情報の伝えられ方がおかしいと思う。 もともと大人しく辛抱強い県民性はあったが、震災後、真実を見ないようにして、閉鎖的になっているように感じる。 芳賀徹  震災3日目、高速道路には入れず一般道で避難。今思うと、福島を封鎖する意図だったのだと思う。福島は国に最初から捨てられたのか? 岡山倉子  (福島のことを)想うと「これでよかったのかな」とマイナスのことを考えてしまう。それで前進できるならいいけれど止まってしまうから、思わないようにしているのかもしれない。 土屋暢樹  震災からの4年半は速かった。日々悩みは尽きないが、生きていけるからよかったと思う。この地域(岡山)に受け入れてもらい、いろいろなつながりが増えたのもよかった。  福島はふるさと。悲しいし、寂しい。前の状態に戻ることはできないと思う。福島は水が美味しいから、酒もお茶も美味しかったが、その水が安心して飲めなくなってしまった時点で、住み続けることは難しかった。山菜もキノコもよく食べていたが、それも汚染を受けてしまった。
匿名  大切なのは子ども。福島に住んでいながら、この事故が起こるまで原発の危険性を考えたことがなかった。1度事故が起こってしまうと、たくさんの人が路頭に迷い、健康被害の不安に怯えながら生きていかなければならなくなる。2度とこのような事故を起こしてはいけないし、そのためには原発の再稼働などあってはならない。 C. H  (福島について)特に何も思わない。想うと「これでよかったのかな」とマイナスのことを考えてしまう。原発事故のことは心に残っているし、福島の情報は得ているが、非難も応援もする気持ちはなく、できるだけフラットに受け取るようにしている。 菅野久美子  本当は福島に戻りたい、両親もいて祖父母もいて家族・親戚がたくさんいる中で育ててやりたいと思った。避難する前の福島での子育て環境は恵まれていたと痛感した。いっしょに暮らす家族は多いほうがいいと思うし、なくしてみて初めてわかったものもある。それでも福島には戻れないと思い、せめて福島のようなのんびりした田舎がいいと探して、たまたま玉野に出会った。ただそれを、「避難するなんて強いのね」「あなたは恵まれている」などと言われ、傷ついたこともある。 飯塚亜希  わたしの人生の中で、なぜあのとき福島にいたのだろうかと、そのめぐり合わせに感謝している。 原発事故のあと、放射能を必死に「安全」という政府と、「危険」と警告する海外メディア情報の違いから、二分される世界を感じた。放射能を「見ようとする目」「見ないようにする目」がある。そう、まわりの人たちから学んだ。 H.S  家の近くから権太倉山を望む景色が大好きで、四季の移り変わりに心が癒されていた。 岡山に来て1年は、家を守るために早く帰りたかったが、車がなく、交通費もかなりかかるので、まだ2度しか帰っていない。
大塚尚幹  川内村では、電源立地交付金で立派な集会所が建てられ、電気契約をしている世帯には年7000円が支払われていた。村人の半分以上が原発関連の仕事についており、原発PR館の見学(宴会つき)もよく行われていた。 原発事故が起き、今度こそ世の中は変わると思ったが、現実にはあまり変化はなかったように見える。それでも、原発の危険性に気づいた人から、それを周りに知らせていかなければと思う。 Y.T  いつでも、どこでも、何をしているときでも、福島のことが頭から離れず、モヤモヤ、イライラ感が常にあった。春夏秋冬に咲く花や、季節の移ろいを見るたび、故郷のなつかしさがこみ上げてきた。 渡辺又弘  何もなければ、ホントは(福島に)戻りたい。嫌いで出てきた人は誰もいないと思う。しかし、これだけ重大なことが起きているはずなのに、「放射能の影響は分からないのだから、なるべく気をつけよう」という雰囲気がないのが怖い。分からないならどちらの選択もあっていいのに、何でも安全・安心になってしまっている。たとえ戻っても、個人で気をつけられることは限られていると思う。 鈴木いち子  わたしと娘は岡山に来てよかった。しかし、夫や両親たちに対して「何てひどいことをしているんだろう」という思いは尽きない。夫は2013年4月に岡山に来てくれ、家族いっしょに住めるようになったけれど、大好きな仕事を奪うことになってしまった。~みんなを苦しめていると思う。
Connect  原発事故をきっかけに、衣食住を見直すチャンスをいただいた。私自身、震災以降、人と接するのが恐怖だったが、多くの出逢いの中で人との繋がりの大切さを思い出させてもらった。また、「人はどんな状況でも幸せになれる術をもっている」ということを学ばせてもらった。出逢いに感謝しながら、自然と思いきり触れ合い、目の前にある当たり前の生活をワクワク楽しみながら生きていきたい。 杉岡直人  もともと東京育ちで、地下鉄サリン事件をきっかけに、安心して暮らせる田舎で子育てをしようと福島に移住した。しかし移住して十数年が過ぎると、様々なしがらみから生活が忙しくなり、自分が目指した方向から離れていた。震災後の避難では、ある意味それらすべてをバツンと断ち切って出てきた。生活ゼロから始めるにあたって、原発や電気やエネルギーの問題を見つめなおすいい機会にできたし、「自分はどういう生き方をしたいのか」と改めて考えて、リセットすることができた。今は、自分が本来したかったことに近づけたと感じている。 匿名  10年以上暮らした福島は、自然が美しく大好きな土地だった。しかし、震災後、復興の名のもとに実力以上の経済が回るようになり、人々の気質が変わってしまったように感じる。 K.K  チェルノブイリの事故の後、もしこれが日本だったら、政府はもっときちんと対応して、日本の技術力でしっかり事態の収束にあたるに違いないと思っていた。でも実際に事故が起きてみて、その期待がガラガラと崩れた。「国は信用できない」「自分の身は自分で守らなければならない」「メディアの報道を鵜吞みにせず、しっかり自分で調べなければ」と思う。 渡辺沙織  震災前までは、福島原発が事故を起こす可能性があること、また事故が起きたらどうなるかなど、近くにありながら深く考えずに生活をしてしまっていた。しかし事故をきっかけに、原発がどんなものなのかを初めて考えることができた。また、生きるために必要なものは大してなくて、生活はもっとシンプルでいい、ということにも気づいた。食品やプラスチック容器、シャンプーや洗剤などの安全性について、いろいろなことが自然と気になるようになった。
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